spacestudyのブログ

宇宙・スピリチュアルの学びの個人的アーカイブ

2021.10.30の夢

断片的な夢だったようです。

 

日記より:

 

夢のなかで私が見た世界では仕事が二つある。


ひとつは、遠くの人とイメージを送り合う。良いイメージや幸せなイメージ、ワクワクする嬉しい、愛、愛着などを送り合う。
イメージで送られてきて気持ちを感じる。

何人かと送り合った。

1人は南米かどこかの若い女の人。
素晴らしい景色や星や家族のことを送ってもらった。私は私の生活の好きなものをたくさん送った。

2人目 女の子 欧米 10歳くらい いろいろなイメージ

 

二つ目の仕事は、良いイメージを創ること。
単品のイメージ 無限にある をイメージして空間にポンポン浮かばせる。
私は雪の日に外をあるくこととココアのイメージ
さくらんぼのイメージ。
などをイメージするとぽんと浮かぶ いっぱい作る

2021.10.4の夢

鮮明で強烈な夢だったようです。

 

日記より:

 

あの夢はなんだったんだろう。
とても懐かしくて、幸せで、寂しくて、もう会えないけど、お互いにとっての幸せであり、それを嬉しく思うような夢を見た。

三者目線だった。けど本人たちの感覚をすごくリアルに感じた。

冒頭、家族で旅行をしていた。私だった。
私と夫お互いのお父さんとお母さんが楽しそうに踊っているのを少し高いところから眺めて、嬉しく思った。
夫のお母さんが楽しそうに踊っている。お父さんは張り切って嬉しそうにしている。

 

場面変わり、16くらいの女の子。別の人、別の人生。
家族で外国に旅行に来ている。5人家族?弟がふたり?タイかどこか?南国
ある人に出会う。会った瞬間にお互いに「そうだ」とわかる。
喜びでいっぱいになる。
家族のもとに帰らずに、旅行期間の2ヶ月間を、その人と、もう1人の友達と、私とで過ごす。
それはそれはもう、本当に楽しい2ヶ月間。俯瞰で見ている。家族は私が2ヶ月間帰らないことをなんだか諦めたかのように祝福して受け入れてくれた。
星空のドライブ。オープンカーで高速道路のようなところを走る。心地よい。最高の気分。ふと空を見上げると、満天の星が車のスピードで引き伸ばされて、カラフルな線が伸びている。


2ヶ月後、迷って帰国することにした。
その人と別れを交わす。

たぶんこの先のこの人生ではもう会えないような気がするのをお互い感じている。
寂しいけど、今ここで別れるのがベストだと感じる。ずっと繋がっているとも感じる。人生の喜びそのものの存在であり、幸せそのものの2ヶ月間。

 

時が過ぎる。また別の人、別のシチュエーション、別の人生。成人女性で、都市のビル街で仕事をしている。
なんらかの事情があり、昔の知り合いに、ビジネス上の注意勧告をしなければいけない。
私はこういうの苦手だと思う。
意を決してその人に会いに行く。
少し待たされる。二人で席に着く。
そのときにとても懐かしくて嬉しくて好きだという気持ちが湧く。向こうもそう感じてるのがわかる。
「あの2ヶ月間が、ここまでの人生で一番幸せだった」と言う。向こうもそうだと言う。
ずっと会いたかった気持ちを確認する

 

2021.9.26に思ったこと

日記より:

 

遠い星と私の間にあると思ってるものってなに?
時間や空間は幻想だとすると
この街のどこかに親友がいるかもしれない
まだ見ぬ親友が
札幌かもしれないし、リオデジャネイロかもしれない
会えたらいいなと思うけど、会えなくても寂しくないなと思う
距離はそんなに問題じゃないから
星を見てるとそう思う

2021.7.21のひらめき

前日からの流れで何か思ったらしいです。よかったね。

 

 

日記より:

 

 

娘との関係でひとつ気付くことがあった。
私は感情的に娘との境界線が曖昧なところがあると自覚してる。あまり認めたくないけど、自分の目の届く範囲、つまり想像できる範囲にいて生きてほしいと思う気持ちがある。実際はそうならないのは知ってる。これは、私の全く想像もつかないようなところで娘が傷ついたりすることがほとんど全く受け入れられないからだ。想像するだけでつらいからだ。
でも一つ思った、
私は昨日かおとといか、自分は人からあらかじめ提示された幸せを生きたくない、なぜなら私の幸せは全て私が知ってるから、ということを自分の心から教えてもらった。
そしてこれは娘についてもそうだ。
娘の幸せは、初めから彼女の心が全て知っていて、彼女は自分の人生を通してそれを思い出していけばいいのだと。私や大人たちが幸せの形を示す必要は全くない。なぜなら娘は自分の幸せを完璧に知ってるのだから。だから想像の範囲を超えて自分の娘が生きていくことは、恐れなくていい。大切なのは、自分の幸せを思い出すということだ。
感情的境界線の話とどう繋がってるのか自分でもいまいちわからない。
娘の幸せと、これから先被るかもしれない傷は、本質的には同じだということだ。それをあらかじめ予測して回避することは、間接的に娘が自分の人生を通して自分の幸せを見つけるチャンスを奪うということだ。それはしたくない。
私の人生と子供の人生は交差しない。私のテーマは学び知ることの喜びを感じ、愛と調和を体現することだ。私はたまたまこの素晴らしい子と親子であるが、別個の人間だ。宇宙の法則として、「あなたが存在している」、というのがある。私がここに存在していて、娘もここに存在している。その事実は、いかなる方法をもってしても変えることはできない。
すなわち、私の人生と娘の人生を多少なり重ね合わせることというのは、宇宙の理に反している。それは、どちからの「存在している」という事実を歪めなければなしえないことだからだ。私と娘がそれぞれ存在している。それぞれの魂にそれぞれの幸せの全てが詰まっていて、それぞれの人生とそれぞれの予期せぬ迂回や傷、挫折、喜び、出会い、ストーリーなどによって、それを思い出したりする。その全てがとても尊い。私は娘のそれらを尊重したい。自分の人生とおなじくらい尊いからだ。親としてはなかなか骨の折れる修行だ。大切であればあるほど、これを受け入れるのはつらいが、娘の傷は娘のものなんだ。自分の傷と同化することはできないんだ。全てが尊く、愛おしい。

2021.7.20のひらめき

瞑想中に突然思ったらしいです。よかったね。

 

日記より:

 

瞑想中に気づいたこと。私は誰かが、これなら絶対幸せになれるよ!と太鼓判押されるような人間にはぜんっっんぜん、絶対なりたくないんだ。思わず笑ってしまった。私は最初から私の幸せを全部知ってる。生まれた瞬間から全てを持ってる、パーフェクトで、だから人から言われたり提示された幸せとかよりよく在ることとか、本当にどうでもよくて、私は私に聞けばよかったんだ。それで全然よかったんだ。私は全部知ってたのだから。頼もしい。そして私の大好きな私だ。もう大丈夫だ。ありがとう。愛してるよ。

 

 

 

2021.6.5(sat)のひらめき

日記より:

 

 

みんな一人一人に、無償の愛を捧いでくれる母親がいる。どんな人にもひとりずつついてる。実際の血の繋がった母親のことではない。その存在はまずこの世の次元の存在ではない。その存在は、私たちがこの世で遊び、喜劇や悲劇のドラマに浸かっている姿を本当に愛おしそうに見ている。
私たちが深い眠りにあるとき、私たちは幼児の姿になり、美しい丘の上で遊んでいる。丘ではその存在がにこにこしながら目を細めて私を見ている。子供になって、草原に寝転んだり、躓いたり、虫の脚をむしったり、思うままにコロコロ興味を移しながら遊んでいる様子を微笑んで見ている。
そして目が覚めるとまた現実に戻ってくる。天使のような少女も、悪意に満ちた人間も、くたびれ果てた人にも、どんな人にも一人一人にそういう存在がいる。だから私たちは、いつでも愛に包まれていて、何も心配することなく、この体でこの生を遊んでいたらいい。どんな遊びをしていても、愛されている。間違いや正しいといった概念からはとうに外れた場所にある楽園。誰にでも胸の内にある楽園。私たちはみなが無償の愛を渾身に受ける子供であり、また同時にその母なる存在は私たちでもある。私が私でいるというのは、私が私を愛おしむということ。祝福すべきこと。うれしいこと。