spacestudyのブログ

宇宙・スピリチュアルの学びの個人的アーカイブ

2021.11月の私が子育てについて感じたこと

日記より:

 

娘は、私にわがままをいうことは今生でやることになっているのかもしれない。過去世で甘えられなかったのかもしれない。理屈はともかく、私にたくさん甘えてわがままをいうために今生で私と関わっていると思う。


私にとっては、娘がたくさん甘えてきて、わがままを聞くという過程を経験させてもらってるんだと思う。私の魂はその経験が必要だから、娘がいて、たくさん甘えてくるのだと思う。私は娘を甘えさせて、わがままを聞く過程で、自分を癒しているのだと思う。わがままとずっと呼んでいるそれは、実は自分の心の声を聞くことでしかなくて、私はそれをずっとずっとわがままなことだ、あってはならないことだ、という教育を受けて、押さえつける勉強しかしてこなかった、でも今はその経験すらもしたくてしたんだと思う。なぜかというと、自分の心の声を失って、それをもう一度強く取り戻す過程は幸せでたまらないからだ。


とにかく私は元来、魂の声が大きかったのだと思うが、それを子供の頃にいろいろな要因で声をなくしていった。そして今再び取り戻しつつある。


大きなが流れがあった。夫と出会ってからここまでで大きな流れがあった。


その流れのなかで、辛いことも浮き沈みも経験して、きっとこれからもいろいろなことが起きる。

でも全部、全部ギフトだなと思う。私の魂の、私の魂に対するギフトだったんだ。


娘の存在もそう。娘という存在があるだけで暖かく穏やかで柔らかい誰にも入れない娘が愛おしいという聖域。それは問答無用で心地よい。
だけどそれだけじゃなかったね。
私は娘のわがままを何度も何度も何度も拒絶して、そしてその私の拒絶よりも何倍も大きく太陽のごとく魂の声が燦々と響き渡る娘に、私の拒絶自体を何度も何度も何度も拒絶され、その経験から自分のことを嫌でも学び、好むと好まざるとに関わらず自分を知り、そして最後には、いや現段階では、私が拒絶してきたわがままとは、自分の心の声を聞くことでしかなかったのだと気づいた。

それは私が10年は取り組んで苦しんだことであり、自分の子供だけはその声を失うことなく育てると決めたことだった。


拒絶には意味が全くなかったのだ。

この子はこの人生でしたいことは全部知っていて、それをしようとしてるだけなのだ。そこに母親の意見の入る余地など全くないのだ。

好きなだけやらせる。ただ地球にきて5年の人間だから、地球の物理的なルールを理解してないとか、社会儀礼マナーについては当然知らない。そういったことで本人に危機が及ぶ場合は、それを教えるだけで良いのだ。
あとは何もする必要ない。本人がしたいと言ってることを全力で応援するだけ。

2021.11.8に思いついたこと

日記より: 

 

座右の銘は設定集

座右の銘を持つということは、設定集をインストールすること。
なので例えば、働かざるもの食うべからず、などをインストールすると、食べていくためには働かなければならない、という信念をインストールしている。

どんな設定も実は存在していないし、本来は必要でもない。ただ、適切な錘をつけることでバランスを取りやすくなったり、流れの中で泳ぎやすいこともある。それが心地よいかどうかは常に私たち自身は知っている。

人は他の人と自分との設定違いを敏感に察知する。そして多くの場合は不安に感じ、同じ設定でいようとする。自分の設定のなかに相手を引き込もうとするか、もしくは他者の設定のなかに自分を置こうとする。
自分自身の設定に関しては意図して持っているものと、無意識に形成されるものとがごちゃまぜに存在している。いわゆるブロック解除というのは、無意識の設定のうち、心地よくないものを無効化する作業だ。

2021.11.8に思いついたこと

日記より:

それぞれの人の取り巻いている現実というのは、それぞれの人が自分が何に値するかという信念の表れに過ぎない。
その視点で見ると、例えば毎週温泉に入っている人は、自分は毎週温泉に入ることに値するという信念が実はあるので、入ることができる。毎日羊に餌やりをするおばあちゃんは、毎日羊に餌やりをすることに値すると実は思っている。
あらゆる要素についてこれはいえる。
また、幸せだとか、そういう抽象的な概念について、信念とセットになっていることもある。
例えば、現在私が感じている幸せ、と、生きていくためにあくせく働くという状態に値する、という信念がセットになった場合、あくせく働かなければ私の感じている幸せに値しない、という観念になる。
自分でそれに気づくととても興味深い。
先ほどの例は少し前の私であるし、おそらく人間の多くが抱えている観念だ。
最高バージョンの私に値すると思っているということは、最高バージョンの私が感じるあらゆる幸せ、喜び、ワクワクに自分が値すると、当然のように思っているということだ。私は今それを感じている。
自分を大切にする、というメッセージは最近の流行りで、いたるところで目にするが、これはつまり、自分が自分に対してなにに値するのかを、より優しいものへしましょうというメッセージだ。

2021.11.6 分離について思いついたこと

分離について感じたことがあったようです。

 

日記より:

 

よくスピ界隈で言われる「目覚めは、近い」 とかってのも分離じゃん。めちゃくちゃ分離じゃん〜〜〜がわいい〜


なぜ分離かは一旦置いといて、
目覚めは、近い ドヤァって言ってる人達って、分離ぎゃわいいをメタ認知させるためにやってるのか?、分離のメッセージ性というのは希求力があるというのを感じてるだけなのか?前者だとしたらスゲ〜

 

目覚めは、近いがなぜ分離かなのだが、
目覚めという概念と自分自身のただ在るという状態を隔ててるものって実は一個もないよねって話

 

 

物語って私たちが分離とか統合とかを繰り返したり、この世の法則性を伸び縮みさせて遊んでる姿をメタ認知するために生まれたんだね
てかメタ認知ってなに?
(今言葉にできない概念)←これのこととして使ってます。

 

 

 

私たち、ぜんぶひとつで全部ここにあるけど、そんなこと一旦ぜ〜んぶ忘れて、この世界にきて、それで世界がこんなに美しいってこと、誰に教わったの?

一体誰に教わったんだろうね。

本当に素敵なことだねえ。


そのとき、あのTikTokで流行ってる歌の歌詞の意味がわかったね。
yo bro who got you smiling like that?like…
誰がそんな笑顔にさせたのさ、そんな…

 

 

 

 

2021.11.6のひらめき

前回に続き、断片的にいろいろ思いついて散らかってますがそのまままとめて載せます。

 

日記より:

 

すべての感情は、あらゆる喜びの最上級である神の喜びそのものの、反映にすぎない
あらゆる感情は、神の喜びのいろんなパターンでしかない。
たとえばそれがとてもネガティブなものであれ、それは神の喜びの形をかえた姿でしかない。
分離も、一つであることの喜びを感じるために生じた感情形態のひとつ。
分離を悪者にしなくてもいい。
分離も、神の喜びの形の一つでしかない。

 

 

私ちちがすればよいことというのは、たったひとつだけで、ただ感じること。
今この瞬間に全ての喜びがあり、その豊かで多種多様なバリエーションを楽しんでいればいい。
そこにある喜びにただ心を震わせるだけでいい。

 

 

どんな状態のときであれ、今何を感じているかにフォーカスすると、そこには必ず喜びに通じるものがある。それは多くの場合、心地よい。その心地よさを感じていれば、全ての豊かさとともに既にある。

 

なんとなく心地いいから、で最高最善になってる

スピリチュアルに意味を持たせるのも、趣味としては楽しいエピソードだけど、私はこの人間で最高バージョンをやっていくほうが楽しいしワクワクするかも、だからそれでオッケー
好きにしな

 

 

 

2021.11.6のひらめき

断片的にいろいろ思いついたようです。

一言二言のメモが大量にあったので、そこから抜粋し、まとめて載せることにします。

 

 

日記より:

 

 

エネルギー体として存在してる限り回転には抗えない

 

夫に眠りにつくまでの数分間が、いくつものファミリーストーリーが存在するほど壮大に感じる。
でも時々思うけど、私たちって時間を伸び縮みさせて過去とか現在とか未来とか、名前つけて遊んでるだけじゃない?一瞬は無限に引き延ばせるし、無限を一瞬に縮めることもできる。

 

努力するということは、常に対象に向かって求め続ける態度であり、これは求めている対象に対しては分離を現している
だから努力しなくてもよい、という考え方

 

 

全ての現象はアラインの一致でしかない

 

 

すべての豊かさが今ここにあるのだから、あらかじめ存在してる最高バージョンの私で生きていけばいいだけじゃん

 

 

今日読んだ感想→散らかってるな〜

2021.10.30にふと思ったこと

日記より:

 

飲酒は感覚のヒューズを著しく下げる、それが今ここの感覚に意識を向けるが、それは「明日、未来」「昨日、過去」への感覚の閾値を上げるからであり、飲酒が今ここの閾値を下げているわけではない。

 

 

今日読んだ感想→たしかにね。