spacestudyのブログ

宇宙・スピリチュアルの学びの個人的アーカイブ

2021.7.21のひらめき

前日からの流れで何か思ったらしいです。よかったね。

 

 

日記より:

 

 

娘との関係でひとつ気付くことがあった。
私は感情的に娘との境界線が曖昧なところがあると自覚してる。あまり認めたくないけど、自分の目の届く範囲、つまり想像できる範囲にいて生きてほしいと思う気持ちがある。実際はそうならないのは知ってる。これは、私の全く想像もつかないようなところで娘が傷ついたりすることがほとんど全く受け入れられないからだ。想像するだけでつらいからだ。
でも一つ思った、
私は昨日かおとといか、自分は人からあらかじめ提示された幸せを生きたくない、なぜなら私の幸せは全て私が知ってるから、ということを自分の心から教えてもらった。
そしてこれは娘についてもそうだ。
娘の幸せは、初めから彼女の心が全て知っていて、彼女は自分の人生を通してそれを思い出していけばいいのだと。私や大人たちが幸せの形を示す必要は全くない。なぜなら娘は自分の幸せを完璧に知ってるのだから。だから想像の範囲を超えて自分の娘が生きていくことは、恐れなくていい。大切なのは、自分の幸せを思い出すということだ。
感情的境界線の話とどう繋がってるのか自分でもいまいちわからない。
娘の幸せと、これから先被るかもしれない傷は、本質的には同じだということだ。それをあらかじめ予測して回避することは、間接的に娘が自分の人生を通して自分の幸せを見つけるチャンスを奪うということだ。それはしたくない。
私の人生と子供の人生は交差しない。私のテーマは学び知ることの喜びを感じ、愛と調和を体現することだ。私はたまたまこの素晴らしい子と親子であるが、別個の人間だ。宇宙の法則として、「あなたが存在している」、というのがある。私がここに存在していて、娘もここに存在している。その事実は、いかなる方法をもってしても変えることはできない。
すなわち、私の人生と娘の人生を多少なり重ね合わせることというのは、宇宙の理に反している。それは、どちからの「存在している」という事実を歪めなければなしえないことだからだ。私と娘がそれぞれ存在している。それぞれの魂にそれぞれの幸せの全てが詰まっていて、それぞれの人生とそれぞれの予期せぬ迂回や傷、挫折、喜び、出会い、ストーリーなどによって、それを思い出したりする。その全てがとても尊い。私は娘のそれらを尊重したい。自分の人生とおなじくらい尊いからだ。親としてはなかなか骨の折れる修行だ。大切であればあるほど、これを受け入れるのはつらいが、娘の傷は娘のものなんだ。自分の傷と同化することはできないんだ。全てが尊く、愛おしい。