spacestudyのブログ

宇宙・スピリチュアルの学びの個人的アーカイブ

2021.6.5(sat)のひらめき

日記より:

 

 

みんな一人一人に、無償の愛を捧いでくれる母親がいる。どんな人にもひとりずつついてる。実際の血の繋がった母親のことではない。その存在はまずこの世の次元の存在ではない。その存在は、私たちがこの世で遊び、喜劇や悲劇のドラマに浸かっている姿を本当に愛おしそうに見ている。
私たちが深い眠りにあるとき、私たちは幼児の姿になり、美しい丘の上で遊んでいる。丘ではその存在がにこにこしながら目を細めて私を見ている。子供になって、草原に寝転んだり、躓いたり、虫の脚をむしったり、思うままにコロコロ興味を移しながら遊んでいる様子を微笑んで見ている。
そして目が覚めるとまた現実に戻ってくる。天使のような少女も、悪意に満ちた人間も、くたびれ果てた人にも、どんな人にも一人一人にそういう存在がいる。だから私たちは、いつでも愛に包まれていて、何も心配することなく、この体でこの生を遊んでいたらいい。どんな遊びをしていても、愛されている。間違いや正しいといった概念からはとうに外れた場所にある楽園。誰にでも胸の内にある楽園。私たちはみなが無償の愛を渾身に受ける子供であり、また同時にその母なる存在は私たちでもある。私が私でいるというのは、私が私を愛おしむということ。祝福すべきこと。うれしいこと。